第9話:「たどり着いた場所」
休日の昼下がり。
カフェのテラス席で、奏は悠真の隣に座っていた。
ふたりの間には、特別な空気が漂っている。
過去の痛みを乗り越えたからこそ、そこにある安心感と静かな幸福。
「……今日みたいな日が来るなんて、思ってなかった」
「俺も。奏が隣にいるだけで、全部報われた気がする」
微笑み合うふたり。そのときだった。
「仲睦まじいね。……まさか、こんなに早くヨリを戻すなんて」
不意に背後から声がした。振り向くと、そこには健吾が立っていた。
薄く笑ってはいるが、その目は冷たい。
「健吾さん……」
奏が立ち上がると、悠真がそっと手を握って引き寄せた。
「何しに来た?」
「忠告しに来ただけだよ。……奏くん、まだ間に合う。そんな男に執着したら、後悔するよ」
「いい加減にしろ」
悠真の声が低く響く。その目は鋭く、もう過去に怯えてなどいなかった。
「お前が俺に抱いてる執着は、もう終わりにしろ。
奏は、お前が何を言っても俺の隣にいる。それが答えだ」
健吾の笑みが引きつった。
「……ふーん。じゃあ、せいぜい気をつけることだね。今はよくても、そのうちまた――」
「もういい」
奏の声が遮った。目を逸らさず、はっきりと健吾を見据える。
「俺は、悠真を信じるって決めた。
あなたがどんなに過去を持ち出しても、今の彼とは関係ない。――俺の気持ちは、もう揺るがないから」
健吾の目が一瞬揺らぐ。
「……そう。なら、好きにすれば」
吐き捨てるようにそう言うと、健吾は踵を返して去っていった。
小さな背中が、ゆっくりと通りの向こうに消えていく。
ふたりは静かに視線を交わし、自然と手を握り合っていた。
その夜、悠真の部屋。
「……ありがとう。あのとき、俺を信じてくれて」
奏は微笑みながら、ソファに座っている悠真の肩にもたれる。
「怖かったよ。正直。でもね、悠真の言葉が、全部ちゃんと届いてた。今はもう、何も疑ってない」
悠真はゆっくりと顔を近づけた。
「じゃあ……今の俺を、もっと知ってほしい。全部」
奏は瞳を閉じ、そっと頷いた。
唇が触れ合い、呼吸が溶け合う。
優しく、けれど強く、悠真は奏を抱き寄せた。
やがてふたりは、互いのシャツのボタンを外しながら、ベッドへと身体を倒していく。
肌が触れ合うたび、鼓動が重なり、ふたりの距離はもう一切の迷いもなく、ひとつになっていく。
「……好きだよ、奏」
「うん……俺も、好き。ずっと、ずっと……」
夜は深く、静かに流れていった。
ふたりの心が完全に重なり合う、その夜は、長く、優しく、そして熱を帯びていた。
翌朝。
窓から差し込む朝の光が、ゆっくりとベッドの上を照らしていた。
カーテン越しの柔らかな陽射しは、まるでふたりにそっと祝福を贈るように、部屋の空気を温かく染めていく。
悠真は静かに目を開け、隣に眠る奏の横顔を見つめた。
少し乱れた髪。ほんのり赤みを帯びた頬。無防備な寝息。
(……こんなに近くにいるのが、夢みたいだ)
奏の寝顔を見ているだけで、胸の奥がきゅうっとなる。
大切で、大切で、胸に抱えきれないほどの想いがあふれてくる。
そっと手を伸ばし、前髪を優しく払うと、奏がまどろみの中で身じろぎした。
「ん……」
瞼がゆっくり開き、まだ少し眠たげな瞳が悠真を捉える。
瞬間、奏の唇がふわっと緩んだ。
「……おはよう、悠真」
「おはよう。……よく眠れた?」
「うん。……すごく、あったかかった」
そう言って、奏は悠真の胸元に顔をすり寄せる。
まるで猫のように心地よさそうに。
悠真は思わず笑みをこぼし、そっと背中に腕を回した。
「……もう、離したくない。こうして、毎朝隣で目覚めたい」
「うん……ずっと、こうしていられたらいいね」
互いの鼓動を感じながら、言葉を交わすふたり。
キスのかわりに額を軽く合わせると、心がふわりとあたたかくなった。
その日も、ふたりは一緒に朝食を作った。
トーストが焼ける匂い、カップに注がれるコーヒー。
些細な日常のひとつひとつが、特別なもののように感じられた。
食後はソファでくつろぎながら、同じ映画を見て、時には顔を見合わせて笑った。
「……ねぇ、こうしてると、前みたいに辛かった日々が嘘みたいだね」
「でも、全部があったから今がある。
だから……これからの“ふたり”の時間を、大事にしていこう」
「うん」
ふたりの指が、自然と絡まる。
もう、何も怖くない。愛する人が隣にいる――それだけで、こんなにも世界が優しくなるのだと知った。
そして、そんな日々が、これからもずっと続いていくことを、ふたりは何の疑いもなく信じていた。
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